Vamos福島
「先生、頼んだぞ!」
 私が今は辞したが教職についたのは、平成元年4月。いわき市で6年間勤務をし、その後、石川町の山形小学校という当時全校生が30名に満たないいわゆる、僻地校で4年間の勤務をした。前任校が、児童数1000名を越えるマンモス校であったため、そのギャップの大きかったこと・・・・着任式(新しく赴任してきた先生が、子ども達に紹介される式のこと)の際、普通の学校なら体育館で行うのだが、少人数のため、体育館は使用せず、小さなホールで、しかも、1年生から6年生が一同に介しても、30名弱という、普通の学校なら1クラス分の人数の前で行った衝撃!?は、今でも忘れられない出来事だった。(前の学校を去る離任式<学校から去る先生が児童にお別れをする式のこと>では、どでかい体育館で1000名以上の児童を目の前にして挨拶をして来たのだから、そのギャップは想像できるのでは・・・)

 しかし、そんな衝撃!?から始まった山形小学校での4年間は、それはそれは、毎日が楽しくて充実した日々であった。学校の周りは、山山山・・・。探検クラブの活動では、タラの芽や山ぐるみを摘んできては、校庭にバーべーキュー用のコンロを用意しておいて、天ぷらを作ってその場で食べる。川に行っては、ヤマメを釣ってきて、その場でさばいて刺身で食べる。校庭に生えているヨモギを摘んできて、児童のおばあちゃんをゲストティーチャー(地域の方が先生になること)に招いて、ヨモギ団子の作り方のレクチャーを受け、全校生でヨモギ団子作り。とにかく、自然をまるごと教材に生かした授業や行事が絶え間なく繰り広げられた。(果たして今は・・・) また、保護者との関係も、今では考えられない程親密!?で、家庭訪問に行くと、帰りの車の中は、もらい物の野菜や山菜でびっしりになったり、
(家庭訪問では、保護者から頂き物を受け取るのは、御法度!が通常の学校なのだが、そこでは、いや、そこだけは、それを受け取らないとなんだあの先生は・・・と思われる雰囲気があり、受け取ることがその地域になじむ第1歩だった。果たして今は・・・)保護者の家に泊まるのは、当たり前!?だったりの学校であった。職員室で仕事をしていると、保護者の方が訪問。「先生、これからいわきに夜釣りに行くから、あとで迎えに来るから!」「今日、会社の事務所で8時から飲み会やるから、あとで迎えに来るから!」etcそんなお誘いが、4年間の勤務の中で何度、いや、何十度あったことだろうか。お誘いは、決まって平日。白河から通っていた私は、深夜3・4時に帰宅するよりは、このまま石川に泊まった方が良い・・・ということで、保護者宅に宿泊。学校に車を置いておくので、泊まった家の子供と歩いて一緒に登校、そんなことは数え切れないことであった。山形小学校でのエピソードは、思い出せばきりがないぐらい・・・ 18年間の教員生活の中で、最も心に残った4年間であった。

 しかし、山形小学校で心に焼き付いて離れないNO1は、何と言っても学校に勤務した4年間、サッカー部を担当したことだった。サッカー部に関しては、以前のブログで紹介したことがあるが、全校生のほとんどがサッカー部といった感じだった。授業が終わるとすぐに校庭へ。高校生の部活動の先生のような待遇で!?、放課後に行われる会議などには、ほとんど欠席状態。そんな待遇を許してくれた校長先生が当時はいたんですよ。もちろん、他の職員の人たちにも当時は、本当にお世話になりっぱなしでした。「サッカーを通してこの地域を活性化させるのが、俺の4年間の役目だ!!」などと事あるごとに豪語し、そんなわがままを許してくれていた先生方、本当に優しかったなあ・・・ そんなこんなで、本当にサッカー部には、全勢力を注ぎ込んだものです。大会の前など、図工の授業とめいうって、応援旗を朝からずっと作り続けたり、その頃は、土曜日も学校があった時代で、午後からフットサルの県南予選が郡山であり、その試合を勝てば県大会が決まるという試合の当日、担任していた子供が具合が悪くて、学校も試合も休むと保護者から連絡が来たとき、「学校は休ませて下さい。その代わり、病院に行って治療を受け、試合に出れるように自宅で待機していて下さい!」などと言って、その言葉通り試合に連れて行って県大会を勝ち取ったり、今考えると、本当に恐ろしいこと!?を平気でやったりしていました。(もう時効だから、この告白は罪になりませんよね!?)

 そんな風に、サッカーにのめり込んだのは、もちろん、いわき市でサッカーの指導者に魅せられたこともあったのですが、山形小学校に来て、サッカーをやり、最初の年の夏休みに、いわき市の大会に泊まりで参加した時に、その当時、保護者会というものがあり、その会長さんだった方と一緒の部屋に泊まった際に、その方から、「この学校はすごく小さい学校だから、子ども達は内弁慶外面で、町内の大きな学校の子ども達と何かをすると、すぐに萎縮し、自分の持ってる力を出し切ることができない。というか、自分で自信を持つものが何もないといった方が良いかも知れない。先生!そんな子ども達に、サッカーで自信をつけてあげてほしい。俺たちもやればできるんだ!という思いをさせてほしい。子供が変われば、親も地域も変わる。親は、すごくいろんなことにがんばる人が多いんだけど、燃えるものが見つからないから、くすぶっている感じがする。先生!俺が全面的に先生をバックアップするから、サッカーを強くしてほしい!」そんな話をお酒を酌み交わしながら、朝日を迎えたことが、つい昨日のことのように思い出される。それからと言うもの・・・・・(前述したような会議ボイコット!?の日々)

 その当時、石川郡内では、学校対抗のサッカー大会が行われており、万年ビリ街道を突っ走っていた山形小学校が、私が赴任して3年目、あれよあれよと勝ち続け、決勝戦でマンモス校に勝利し優勝の栄冠を勝ち取り、地域をあげて朝方まで祝杯をあげたことがやはり、つい昨日のことのように思い出される。祝杯をあげながら、会長さんが、「先生、ありがとう、ありがとう・・・」とうれし涙を流しながら顔をくしゃくしゃにし、何度も何度も抱きつかれたことが、やはり今でも・・・ (翌年も優勝し、これまたすごい祝宴が繰り広げられた。)

 サッカーを通して、これまで、たくさんの方に出会い、たくさんの刺激を受けてきたが、山形小学校=山形小サッカー部で出会った子ども達は言うまでもなく、その保護者会長さんとの出会いは、今の指導者としての、いや、一人の人間として、ものすごくかけがえのない様々なものを与えてもらった忘れ得ぬものとなった。本当にすばらしい出会いだった!


 そんな方が、一昨日亡くなった。その訃報を受けたのが昨日の夕方。「えっ・・・・・・・」言葉が出なかった。52才のまだまだこれからと言うときであった。死因は、心筋梗塞。本日、石川町内の葬儀場でしめやかに告別式が行われた。祭壇に掲げられた遺影は、私が出会った当時を思わせるほど若々しいもので、今にも、「先生、頼んだよ。俺が、全力で先生をサポートするから!!!」と言いそうな表情に見えた。

 告別式からキンダークラスの行われる高山グランドに直行。その場で、喪服からジャージに着替え。
本日は、3人しかいないスクールであったが、「俺が今できることは、この3人のために全力を傾けること!そうですよね○○さん!」と故人の名を心で唱えながら、全身全霊を傾けて1時間のスクールに従事した。スクールを終え、足取り軽く帰って行く3人の子ども達の後ろ姿が、とってもとってもまばゆく見え、猛暑を思わせる灼熱の太陽が、心地よいものに感じたのは、なぜだったのだろう・・・

 故人を偲ぶと共に、哀悼の意を表し、本日のブログを捧げます。安らかにお眠り下さい。
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